主が受け入れるいけにえ

2月 21 | 2018

主が受け入れるいけにえ
マルコ12:41-44、サムエルⅠ16:7

マルコ12:41-44
41,それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
42,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
44,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

 

サムエルⅠ16:7
7,主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

サムエルが油を注ぎに行きました。神様の御言葉に従順して新しい王を立てるために行きました。ダビデの父、エッサイのところに行きます。その家の長男エリアブが出てきますが、非常に素敵な容貌です。サウルのように背も高くて肩幅も広く、本当に男前です。それで神様が本当に正しい選択をされたと思っていると、サムエルに神様の御声が聞こえてきます。何と仰ったのかというと、彼の容貌や背の高さを見てはならない。私が見るのは、人が見るようには見ないからだ。この御言葉を私たちは考えてみましょう。神様がご覧になるとき、人が見るようには見ていない。私たちと同じふうに神様は見ない。世の中が持っている判断の仕方、その基準をもって神様は決して人を見たりしない。

私たちはそうでしょう。私たちは成長しながら、最近ずっと黙想していることですが、それは何かというと、人は作られていくということです。何もない状態から形成されていくことを私たちは知っています。数多くの目で見るもの、耳に入るもの、そして本を読んだり、テレビを見たり、そのあらゆることを通して私たちは作られるのです。一番簡単なたとえで、必要ないものなのに、コマーシャルを見て、私はその品物を買うようになる。とすれば、私がその品物を買ったのでしょうか。そのコマーシャルが私を買わせたのでしょうか。私が買いましたか?でなければ、買わされたのでしょうか。私たちはこのように数多くの人々の基準、判断によって作られていくのです。

一番簡単なたとえで、担任先生。小学校の先生。小学校の先生は非常に重要です。なぜなら、小学校の先生は子供を褒めます。誰を褒めますか?勉強ができる子供を褒めました。本当に上手にできたね。算数が良くできると。どうしてこんなに算数が良くできるの?そこで終わればいいですが、そこで終わらないことが問題です。誰かが褒められる様子を見ながら、私も先生に褒めてもらいたい。私も先生に認めてもらいたい心が生じるのです。先生は他の人と比べて褒めたのでないとしても、これが生じてしまうのです。不思議でしょう。もちろん、そのような先生もいます。私が今まで話したように、サタンの手口というのは、羞恥心を入れることです。君はこれがないじゃないか。君は算数ができないだろう。君はいま裸ではないか。このようにできてないじゃないか。真面目にやっていることは一体、何だ。相手を動かす一番簡単な方法がサタンのやり方です。何かがないことを強調し、あなたがこのように生きるとみじめになるという、未来がみじめになることを強調します。それで、羞恥心を入れて、動かします。これがサタンの方式です。先生がそのような方法を使うこともできます。よくできる子だけを褒めればいいですが、目的があります。勉強ができれば褒められる。そのようなことがいくらでもあります。でも、その先生がただ褒めてあげたとしても、他の学生は私も褒めてもらいたい。私も認めてもらいたい。先生の喜びとなりたい。このような心が生じてしまいます。しかし、自分がいくら頑張っても算数が分からない。自分はいくら努力しても、どうしていま勉強しなければならないのか、その理由が分からない。だから結局自分は先生を喜ばせることができない。疎外感を感じます。自分がうまくできないから、先生を喜ばせられない自分の姿を見るようになります。両親を喜ばせられない自分を感じるようになります。そうすると結局は挫折感、絶望感、こういったものにさいなまれるようになります。皆さん、小学生の時からそれがあります。このような感情に対して対処していかなければならないのに。感情に対処できなければ、とてもゆがんだ方向に行くかも知れません。

自分を認めてくれることを願っていますね。女の子たちにカッコいいと言われたり、自分が一度も褒められたことがない。なぜなら、たばこを吸っているから。中学生なのにたばこを吸うと格好いい、なぜなら勇気があると思うから。先生たちも禁止し、両親たちも禁止しているのに、たばこを吸っているから、君は本当に勇気があるね。格好いい。それで格好いいという言葉に、ああ、格好いいんだ、そのように慣れてしまいます。自分が自分を作っていくわけではなく、人々の言葉によって自分が作られていくのです。感情の中にある絶望感、挫折感、疎外感、その感情の中にある深い欲求は何ですか?重要なのは欲求です。欲求が満たされれば、人は嬉しくて平安で、感謝することができます。しかし、欲求が満たされないから不安で、もどかしくなり、死にそうになり、苦しくなるのです。世の中が作ったその文化はずっと羞恥心を与えて、それをもってその人を動かすから、ずっと間違った欲求が生じてしまいます。例えば、私にも二つの欲求があります。私も先生を喜ばせてあげたい。私も両親を喜ばせてあげたい。しかし、私はそれがあまりよくできないし、私がうまくできるのはこれだ。私がしたいのはこれだ。私がしたいのはこれなのだけど、両親が喜ばせて先生を喜ばせることは別の何かです。二つの欲求が一緒にあるときに私はどちらに従って生きるべきでしょうか。私は何に合わせて、どこに調子を合わせれば良いでしょうか。両親に褒めてもらいたい。先生に褒めてもらいたい。それは悪い感情ではありません。それは大丈夫です。

しかし、これが衝突します。どうして社会は私がしたいことを思い存分できないようにするのだろうか。その文化は、数学ができる子に数学が良くできるねと言って、国語ができる子には国語が良くできると、どうしてそのように言えないでしょうか。このような間違った文化があります。何かが完璧にならなければならないという文化があります。私たちはこのように自分の欲求があり、もちろん全部自分の欲求なんだけど、褒めてもらいたい。外部の期待、そして私がしたい欲求、外部の期待に応えたい欲求。私がうまくできることと、私がしたいことの欲求、それがぶつかります。それが対立して衝突します。

わたしは人のようには見ていない。人は容貌を見て、人は背の高さを見て判断する。だから人々はその人がどれほどうまくできるか、それだけを判断します。その中にある欲求、その中にある葛藤。難しくて厳しくても、一生懸命生きているその子の感情、欲求、それを重要としないで、数学の成績がどれほどなのか。国語はどれぐらいできるのか。それでその子を判断します。もちろん、小学生の時はそれがないかもしれません。しかし、中学校、高校は本当に厳しいです。なぜならば、大学入試というもので、全てを判断するからです。世の中がそれで全部を判断するからです。

以前、子供を育てる愛の技術という本がありました。感情コーチタイプの学者の話です。そこで、私が非常にショックを受けたことがあります。褒めても、それが毒になるかもしれない。驚きました。例えば、自分の子供を褒めてあげます。あなたこそ最高だよ。あなたはとても善良だね。そう褒めました。しかし、そのように褒められた子は突然、不安になります。何が不安になるのかというと、私は昨日、先生にうそをついたのに。あなたは最高だよ。何もかもがこんなにうまくできるね。そのように言われたけど、昨日は友達から、君はそんなことも出来ないの?と、そのようなことを言われた。そうすると、その褒め言葉がかえって毒になります。褒めてあげるときは、そのように褒めてあげてはならない。このような部分がこうだから良かった。読書感想文を発表して賞をもらいました。あなたは最高だ、すばらしい作家になれるよ、と。しかし、その子は自分よりもすごい子は幾らでもいると思っています。褒めてあげようと思うなら、何が良かったのか、その部分がどのように良かったのか、そのように具体的に褒めてあげてください。

皆さん、私たちが子供をほめる。私たちが何かをしてあげて、私がよく話すことですが、スンワン君に絵が上手ねとずっと話してあげれば、自分は画家になるべきだと思うんです。この誉め言葉は良いことでしょうか。悪いことでしょうか。神様がその魂に吹き入れてくださった使命というものがあるのに、私たちの誉め言葉が画家にさせてしまうこともあります。私たちの間違った誉め言葉が変なところにその子を導くかもしれません。スティーブ・ジョブスが人生の一番大切な瞬間になるときに、「自分がもうすぐ死ぬという事実は、大きな決断をする手助けをしてくれる、人生で最高のツールだ。外部からの期待、プライド、恥をかいたり失敗したりすることへの怖れなど、ほとんど全てのものは死と向き合うと消え去る。そして本当に大切なものだけを残してくれるんだ。」 私たちは、どうしてこのように行動しているのか。今この瞬間、入ってきた感情は何か? 私は作られています。この時に、このような感情が生じてしまう、そのような自分がすでに作られています。そうでしょう。

ヨハネ8章にあの女が石に打たれて死ぬときに、恥ずかしいことなど大したことではありません。大きな罪を犯して非難されて当然でしょう。姦淫というものはそうです。職業が遊女だったというのではなく、姦淫というのは、もともと夫がいるのに浮気をしたわけです。石に打たれて当然な女です。遊女ではありません。石に打たれて、非難されて、後ろ指をさされて、羞恥心を覚えるべきです。しかし、他の人々がそれをするべきではありません。石をその人に投げられるわけではありません。その女は恥ずかしいことなどまったく問題ではありません。なぜなら、死ぬことになっているから。死の前ではそれは重要ではありません。何一つ重要ではありません。恥ずかしいことは何一つ重要ではありません。そうでしょう。死ぬ羽目になったから。

私たちは、皆さん、全てのことがそうです。自分が自分を、外部の期待に、私がこれができる。この部分で私が上手だという自慢。そしてできない部分においてはものすごい羞恥心、みんなそれぞれあります。ない人はいません。高慢な人はいつも高慢だと思いますか?いいえ。高慢という感情は、その人の心の状態が、一方では羞恥心が強いということです。羞恥心を持っているということはほかの部分では私がものすごく高慢だという証拠です。なぜならば、他人と比べるからです。社会は他人と比べながら自分の価値を決めるからです。他人と比べながら、自分を作っていくからです。ですから、これに対して切り落とすことがどれほど重要なのかしれません。もう一度読んでみますね。外部からの期待、プライド、恥をかいたり失敗したりすることへの怖れなど、このすべてが私たちを押さえつけています。

私たちは過去から恥をかいた記憶があるかもしれません。そして未来への不安はないか?再び恥をかくかもしれない。それが怖いわけです。過去にものすごく恥ずかしかったこと、みんなは褒められたけど、私だけが褒められなかった。色々あるかもしれません。そのような羞恥心が再び起きるかもしれないから怖い。私たちがこれに完全に捕まえられています。世の中はこのような羞恥心によって人を動かすから、君はこれが足りないじゃない?これを持っているべきではないか。最低限これがあれば幸せになれる。最低限これがあれば人間らしく生きることができる。それが、人が見るものです。それが世の中の見方です。神様は、私は人が見るようには見ていません。私が見るのはその中心、心です。どれほど辛いか、どれほど大変なのか。どれほど苦しいのか。それを皆さん、他人は、それを暴くことができません。あの女のように。神様はそのような方式を嫌います。誰が石で打つことができるのか?あなたがたは誰もそのようにすることはできない。その女を石で打ってはならない。

私は結局作られた私です。世の中で見て聞いてあらゆるインプット、感じて、人間は霊的な動物です。言葉は素敵だけど、よく考えてみるとプレッシャーをかける言葉、霊的にそのようになるかもしれないじゃないですか?それを全部感じるんです。それが全部インプットになります。そのようなインプットによって作られた私。

磁石を作るときにその磁石をどのように作るのか分かりますか?皆さんよく分かりますね。磁石で縫い針をこすると、縫い針は磁石になります。そうですね。磁力を持っている鉄などをこすりつづければ、それが磁石になります。いくらでも磁石を作ることができます。

私たちもそのように作ります。サタンがそのようにこするわけです。こうであるべきだ。他人を褒めたのに、私は羞恥心を覚えている。私が非難されたわけではなく、他の人が褒められただけなのに、私が恥ずかしく思う。これはどれほど間違ったことでしょうか。

今日の本文に戻って、神様が見た中心は何か。神様は深いところを見ておられます。その魂の深いところを見ておられます。今日の本文には献金。私はこの説教があんまり好きではありません。なぜなら、この本文は非常に重要なものだからです。私がどうしてこの説教が好きじゃないかというと、この説教の内容が重要じゃないからではなく、私もそのような弱さがあります。あの教会に行くといつもお金のことを話している。あの教会に行くと、いつも献金しなさいという。あの牧師先生はお金だけを欲しがる。そのような言葉が聞きたくなくて。これが私の中にある弱さですよね。真理を伝える者がそのような弱さを持っていてはいけないでしょう。そうでしょう。だから、この説教をすることを嫌がっていましたが、しかし、ここに重要なことが書かれているから、これを読むことにしました。

多くの人が献金をしましたが、あるやもめがレプタ銅貨2つを投げ入れました。それは幾らか。レプタ銅貨1つと、1デナリがありますね。1デナリは労務者の一日の賃金。日本でいうと1万円。1レプタは1万円の128分の1です。計算すると78円ほどです。それが2つだから、約160円です。ある人が献金をしました。160円です。ある金持ちは1万円入れました。5000円入れました。イエス様が見ると、あのやもめが一番たくさん投げ入れたのです。

皆さん、この神様は、なんと良い神様でしょうか。ただ単にお金の量で計算しません。決して。どれほど多くのものを持っていてその中から幾ら入れたか、それを見ます。いつも神様は、見てください。イエス様はなんと仰ったかというと、このように話しました。
44,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
これは簡単に言うと、分数です。私が100を持っている。100を入れたならそれは1という完全なものです。私が神様からいただいたものが100なら、そこから神様に100を捧げるなら、それを神様は完全だと仰います。しかし私たちはいつも100をいただいて、いつも1を捧げます。そうでなければ、1万をもらったのに10を捧げるかもしれません。10万、100万をもらったのに1万をさ捧げるかもしれません。それゆえ、100万を捧げたか、10万を捧げたか。100円を捧げたか。200円を捧げたかが重要ではなく、受けたものの中から幾ら捧げたか。使徒パウロは言います。私たちがもらってないものなどあるのか?そうでしょう。恵みというのは、まさにもらったものです。私たちは全てをもらったのです。両親から愛を僅かしかもらわなかった、そのような憎い両親だとしてもその両親を赦し愛するならば、この子の両親に対する愛はどれほど完全なものでしょうか。両親にものすごい愛をもらったのに両親に憎しみを返す。お父さん、お金がたくさんあるのに。私がお家を買うと言ってるのに、そのお金もくれないの?お家を買うお金の半分ぐらいくれ。そうすれば私は幸せだ。そのときからその両親と子供の関係が途切れて、両親を憎みます。どれほどたくさんもらいましたか?なのに結局憎みます。

これはお金だけの問題ではありません。あらゆることです。神様にいただいた全てです。ギターがすごく下手なのに、私は捧げるものがこれしかありません。私は賛美がすごく下手です。賛美には音程があるのに、歌うと音程が取れず一定です。聴く人々はあんまり恵みを受けません。しかし神様はそれに関心がありません。どれほど賛美が上手か。それは見ません。その音程を見るのではなく、どれほど大変な状況で、人々の目を気にすると歌えないけど、あの子が私に捧げようとして恥を覚悟の上で歌うなんて。それはものすごく大きいことです。

このやもめは一週間の生活費を完全に捧げました。だから完全なものを捧げたわけです。イエス様の目には、そう映りました。私たちがよく話す李ヒドン長老がいますね。世界貿易センターの総裁です。トップです。President。ものすごい存在です。この方はお金がありません。ものすごくお金を稼ぐじゃないですか?本当にたくさん稼ぎますが、いつもお金がありません。なぜなら全部捧げるからです。その方がもらったビジョンがそれです。神様が彼を高い地位に就かせるときに、突然高め始めたときに彼に与えたビジョンは何かというと、あなたは宣教師を、星のように輝く、多くの人を救う宣教師を、数えきれないほどの星を支援しなさい。そうすれば星かける星の報いではないか。だから本当に多くの宣教師を支援しています。皆さんも手紙を書いたらお金を支援してもらうことができます。しかし、その方の娘が幼い頃、その方に質問したそうです。その時は副総裁の時ですが、お父さん。お父さんの会社の人々はみんなロレックスのような高い時計をつけているのに、どうしてお父さんはいつも安っぽい時計をつけているの?そこで子供を自分の会社につれていて見せてあげました。何を見せたかというと、ロレックスをつけた人々が自分の前で皆挨拶をするそれを見せてあげました。そのあとに娘に話した言葉が、よい時計をつけたからといって、その人がすばらしいというわけではない。神様が高める人が本当に高い人だ。

最後に皆さん、何かをうまくしなければならない。それは世間の方式です。神様はその中心を見ます。皆さんがしている奉仕を、皆さんが世間の方式になれているから、うまくしなければならない、これがプレッシャーです。そうでしょう。ものすごいプレッシャーでしょう。しかし皆さん、覚えるべきです。神様に私たちが救われるために私たちがすべきことは何もありません。非常に重要なことです。私はたまにそのことを考えます。バプテスマのヨハネを考えます。本当に重要な人だったし、イエス様が苦しみを受けないようにする本当に重要な人だったのに、イエス様はどうして一度もその人に、君はもうちょっとよくやるべきだよ、そのように言わなかった。彼の使命を受け継いだペテロにも、少しうまくしたら楽になるんじゃない?など一言も言いません。復活された後にもどうしてあんなことをしたのか、と一言も言いません。神様は私たちを頼りません。これがどれほど重要なことか。ならば、私は結局神様を喜ばすことができないのでしょうか。それは問題ではありません。数学の点数が0点だとしても、私は愛されている存在です。生まれるときから私は大切な存在です。それと関係なく私を愛しているということです。

最後に一つ例えて、終わります。宣教師たちがたまに聞く巡回宣教師の金ヨンイ宣教師という方がいます。全世界を回って宣教師を教育する方です。宣教師たちが宣教地で大変で韓国に帰ろうとすると、とりあえず退路を遮断しなさいと。とにかく恵みを与えて帰れないようにします。この宣教師さんは、本当に神様が用いてくださる方です。子供が5人いるのですが、長男がアフリカ宣教に行きました。そこに行くには飛行機を2~3回乗り換えなければならない、奥地です。そこの責任者の宣教師が韓国に帰ってきました。自分の息子が宣教師の元にいるから、どうですか、私の長男はうまくやっていますか?うと聞いたそうです。うまくやってますよ。しかし、先生、問題があります。あまりにもうまくやろうと張り切っています。あまりにも緊張しています。その話を聞いて、金ヨンイ宣教師が何回か乗り換えて息子に会いに行きました。何回も乗り換えて、息子に会い、たった一言だけ言って帰ってきました。自分も忙しいから。何と話したかというと、子供を呼んで、「君がうまくできても、君がうまくできなくても、君は私の息子だ。わたしは帰る。」それだけ言って帰ってきました。この言葉を言い残して帰ってきました。しかし問題は、帰り道の飛行機の中で自分が話した言葉が自分に適用されるわけです。神様が自分にその言葉を語りかけてくださっているです。「それが私の心だ。君がうまくできても下手でも私の子供だ。」帰りの飛行機の中で神様がその言葉をずっと、「君がうまくできても下手でもずっと私の息子だ。私は君を応援する。」こんなことがあり、その宣教師は帰り道でもっと恵みを受けて涙ながらに帰りました。

皆さん、社会が作った私ではなく、神様が見る私。神様が考える私。それを皆さんが考えてください。神様は中心をご覧になります。来週から順番で神様に賛美を捧げてみましょう。なぜなら、詩篇69編30節-31節

30,歌をもって私は神の御名をほめたたえ感謝をもって私は神をあがめます。
31,それは雄牛にまさって主に喜ばれます。角が生えひづめが割れた若い牛にまさって。

鳩よりも、羊を捧げるよりも、牛を捧げるよりも、まことなる賛美。私の心からの告白と賛美を主は喜びます。ここに出てきて賛美をするけど、どれほど歌が上手だったか。その人がどれほど上手か。それは問題ではありません。ここに出て神様だけに捧げる。これを訓練することができる。人々の目を気にせず、神様だけに捧げる。このような訓練が必要です。そうしたときに、神様がそれができたときに神様がどれほど喜んで受け入れてくださるでしょうか。音程など全部間違っても神様は本当に喜んでくださいます。雄牛を捧げるよりも歌を1曲、心を込めての賛美を喜んで受け入れてくださいます。私たちが神様を喜ばせるまことなる交わり、まことなるフェローシップは、神様と私との関係がしっかりと建てられれば全てが良くなります。私たちの関係がどうして辛くなるかというと、ずっと他の人々に判断されるかもしれないから恐れたり、それで疲れてしまいます。そうすると関係が深まりません。深くなるというのは徐々になるものなのに、表面にだけぶつかります。なぜなら怖くて、告白が怖い。透明でもなく、神様が重要に思ういけにえは決して、どれほど多くのものを捧げたかや、どれほどうまくできるか、上手かではありません。どれほど心を尽くしたか。どれほど練習したか。どれほど捧げたかどうか、それを見ています。歌の上手い人が、練習を一度もせずに、来て歌ったら人々の耳には恵み深いかもしれません。何の練習もせず、何の感動もなく捧げるものは私は受け入れない。どれほど感謝でしょうか。私たちの神様はどれほど良い神様でしょうか。喜びのいけにえを神様に捧げる私と皆さんになることを、主の御名によって祝福します。

祈ります。
感謝します。主が受け入れられる、主が喜ぶいけにえ。捧げもの。私たちが自分をアピールしようとしたり、他人の評価に、他人の判断に左右されたり、小さくなったり、怖がったりそのような姿を持つときがあります。主から作られた私たちだということを分かるようにしてください。主よ。訓練することを願います。まことに神様に心の中心を神様に捧げる者としてください。イエス・キリストの聖名によって感謝してお祈りいたします。アーメン。