幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人

1月 20 | 2018

タイトル:幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人
本文:ローマ人への手紙 4章1節‐8節
1,それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
2,もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
3,聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
4,働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5,しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
6,同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。
7,「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。
8,幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」
ローマ書3章までは救いに関するすべてを話した状況で、その救いが今日の私たちにも適用されるという論理が4章で展開されています。3章で福音の深い世界がすべて明らかにされました。。この4章は、今日の私たちにとっても救いが、キリストの行われたことを信じる私たちのものになる。4章はある意味で非常に重要です。2000年前に行われた主の十字架がどうして今日の私たちにまで適用されるのか。

2節 もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
3節 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
4節 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5節 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

この部分について少し考えてみたいと思います。この部分は非常に重要です。前回も私の話の中で、4Fの工事をした話をしました。私たちはいつ一番うれしくなるのか。自分が働いたことに対して誰かが認めてくれるときに非常にうれしくなります。自分が何かしたことを誰かが認めてくれて、ほめてくれたときは非常に気分がよくなります。そうですよね。私がビジネスをする人ならば、私が企画書を提出したら上司がそれを採択してくれてほめてくれた。私が一生懸命に書いた論文が優秀論文として選ばれた。それで多くの人々がその論文によって私に一目置くようになった。それはすごいことです。そのように私のしたことが認められたときほどうれしいことはありません。人間はそれにしがみついているのです。人々の承認、誉め言葉、そして栄光。「あなたのおかげだ」という言葉を聞きたがります。しかし問題は、この働く者にとって、報酬は恵みではなく、当然支払うべきものとみなされます。そうですよね。私がしたことに対して、私が代価をもらうのは当然だ。ある人が本を一冊書きました。書き上げるまで本当に努力しました。身体はとても痩せ細り、何時間も机の前に座って書き続けました。昔は、書き終えることを脱稿と言いました。パソコンの時代ではないから、原稿用紙にそれを書いたり消したりします。出版社に自分の原稿を渡すのはとても難しいことです。脱稿までの難しさ、厳しさ、それを書き終えた後で認められたらどれだけうれしいでしょうか。どれほど飛び上がるほどうれしいでしょうか。自分が投資したものがあったから、それだけの努力をしたから、それが認められるのは当たり前のことです。うれしいことだけど、ある意味それは当たり前で、それは恵みではありません。それは感謝ではありません。それは私がしたことに対する当然の報いです。

問題はここで発生します。いくら教会に通ってイエス様の恵みを賛美しても、自分の中に恵みが感じられないというとき、それは自分が行ったことの当然の代価だと思っているからです。人生には2つの生き方があります。一つは自分が行ったことに応じて神様に代価をもらおうとすることです。自分がした行いを神様に認めてもらおうとすることです。他の人々に褒めてもらうもらおうとすることです。この人生には決して感謝がありません。決して恵みではありません。これはつまり、私がもらうべきものをずっと計算しているわけです。感激がありません。喜びがありません。このような喜びはすぐに終わってしまうものです。またすぐに企画書を書かなければならないし、原稿を書かなければなりません。何かの努力によって認めてもらおうとします。これがまさに私たち人間の中の惨めさです。

見てください。いつも私は皆さんをどこに導いていきたいかというと、創世記3章に導いていきたいです。なぜならば、その箇所が本当に深いからです。たくさん黙想してみてください。アダムのその状況を黙想してみてください。彼はどうして取って食べましたか?それを取って食べた後に彼が裸になったわけではなく、もともと裸でありました。しかし、それを取って食べた後に自分が裸であることに気づきました。最初から裸だったのに、その実を取って食べた後に自分が裸であることに気づきました。そして隠れました。隠れたときに、神様が、アダム、どこにいるのかと聞かれたとき、私は自分が裸なので恐れて隠れました。そのように言っています。彼の間違いは、取って食べたこと、それは過ちでしたね。しかしどうして取って食べてしまったのか?それは取って食べてはいけないのだという信頼が砕かれたからです。サタンが、「あれは取って食べていいんだよ。あれを取って食べると神のようになる。」これです。ですから、私を愛するからそれを私が取って食べないようにしたのだ、とは考えず、それはとても良いもので、それは非常に良いものだから、自分だけのものにするために、ひょっとしたら私がそれを取って食べて神様のようになるかもしれないことを恐れて、神様はそれを私に隠したのだ。信仰が敗れました。愛において信仰がなければ何物でもないですね。それは愛の関係ではありません。

愛は関係です。人間ほど両親が弱い存在はありません。人間ほど、両親が子供を産んだ後、その子供を一から面倒を見なければならない存在はありません。動物を見てください。子牛は生まれて何時間か過ぎたら、お母さんが身体を舐めてあげたらその日のうちに立ち上がります。立ち上がってお母さんの乳を探して飲みます。動物は皆そのようにします。人間の赤ちゃんはそうですか?そうではありません。決して、そのような力はありません。両親が愛するようになっています。そうしないと命の危機にさらされます。神様は人間を始めから、両親が愛を与えるように創っておきました。どれほど弱い存在ですか?愛の関係が形成されるように創りました。両親の愛を受けて成長するように創りました。愛というものは関係です。しかし、信仰がなければその関係が砕かれてしまいます。それは何の関係でもありません。信仰がなければ、それは何の関係でもありません。アダムは神様を信じられなかった。私を愛しておられることを信じられなかった。それは関係が途絶えたということです。それが霊的な堕落です。霊的な堕落があって取って食べたわけです。そうなると、取って食べた結果気づいたことは何ですか?私は何者でもないのだ。ですから、彼は罪人の状態でもなく、義の状態でもありません。原罪とは、信仰が砕かれたことです。神を信じられなかった。私が神様のようになろうとしたし、神様と等しくなろうとしたこと。神の国で私が自分の国を建てようとしたこと、それが原罪です。その後、神様はすぐわかります。アダム、あなたはどこにいるのか。隠れましたと言ったら、何と仰いますか?善悪の知識の木の実を取って食べたのか?すぐにわかります。何と仰いましたか?あなたが裸であることをだれが言ったのか。誰があなたはみすぼらしい存在だ、みっともない存在だと話したのか。裸というのは何もない状態です。義もなく、罪もない状態です。しかし、取って食べた後、あなたは何者でもない、そのときから自分で自分の服を作り始めます。そして問題は、それがどれほど大きな罪の状態なのかわかっていません。

同じではありませんか?罪を犯す前と、罪を犯した後の裸の状態は同じです。同じだけど、何が変わりましたか?私がこれから何かをして私の王国を建てよう。私が何かをして代価をもらうのは当たり前だというのです。この国の悲惨さを知るべきです。惨めさを知るべきです。

『光あるうちに』この本を買って読んでみてください。この悲惨さがわかりませんか?ある人が「あなたは母親として自分がそれで良くやっていると思っているの?」と、そんな風に聞いたら、母親の心は砕け散ります。「あなたは、夫として、妻として、私の夫でいる資格がありますか?私の妻でいる資格がありますか?」すぐに心が砕け散ってしまいます。私たちが確かに理解すべき世界があります。今私が生きている人生は、本来何でもないものでしたが、その中で働いて代価を受ける人生、そんな人生を続けたいですか?そうではありません。何が違いますか?堕落はそれではなく、背きです。反逆です。クーデターを起こして、本当にあり得ない罪を犯しました。だから、私が何かをしたから何をもらえるような状態ではありません。私は罪人の状態です。罪人の状態私が囚人の服を着て、そこで一生懸命努力したからと言って、それに代価が与えられて、その状態で生きるということがあり得ますか?このような状態です。私たちはすでに惨めな状態にあります。

私たちはどれほどの罪人なのか、一つの譬えがあります。皆さん、泥棒と陰口、どちらがより大きい罪だと思いますか?陰口をすること。二人が一人について陰口をすることと泥棒と、どちらのほうが大きい罪だと思いますか?例えば、私が大切にしているネックレスが盗まれた。高かったのに勿体ないね。記念日にもらったのに。。それぐらいで終わりますが、泥棒に入られたからといって自殺する人はいないでしょう。しかし、他人に陰口されて死んだ老人も多いし、そのような少年・少女の話も多く聞きます。ある譬えがあります。ある嫁が友人たちとこんな話をしていたそうです。うちの老人はとんでもなく食いしん坊だ、あの歳にもなってご飯を3杯も食べている、と。すると、それを聞いた義理のお父さんが怒り、自殺しました。食事を拒み続けて餓死しました。また、ある中学生たちが、あの二人は付き合っていると噂を立てたところ、二人ともそれぞれ自殺してしまったそうです。精神薄弱児の30%は、母親が妊娠3ヶ月までに精神的に強いショックを受けたことがあるとのことです。どちらがより大きい罪でしょうか。ローマ書1章でも、陰口を言う者。皆さん、陰口を言ったことのない人がいますか?陰口を言うのは罪人です。私たちは自分に都合よく罪を考えます。神様の御国では、それは非常に重い罪です。だから、私がしたことをある程度ほめてくれる世界ではありません。私は死ぬことになっています。私は決して天国に行けない。地獄に行くことになっています。そのような状態で私を救ってくれる人を探しています。少しだけ状況が軽くなることを願っているわけではありません。私は救いが絶対に必要な存在だということを知るべきです。誰かの助けなしには、私の罪は自分が既に犯したものです。20年生きてきて、30年、40年生きてきて、どれほど多くの罪を犯して生きてきましたか?皆さん、憎しみは、人間だれもが感じるのではりませんか?その憎しみの故に、その魂がどれほど破壊されるか、どうやってわかりますか?皆さんは死刑を受けるのです。それは既に自分が犯した罪のためです。それをどのようにして返しますか?返すことのできないものです。私の善の行いによって返せるものではありません。私たちは適当に、皆がそのように生きるでしょう。自分がしたことを褒めてもらったり、代価を貰いながら生きるでしょう。そうではありません。監獄でそのように生きているのです。監獄で少し良いことをしたからといって、神様はそれは死刑、死だと言っています。地獄だと言っています。

過去のその罪をどうやって返すことができますか?子供たちが死ぬと、殆どは天国に行くそうです。これはイエス様を信じる信じないに関係ないそうです。子供たちが死ぬと殆どが天国に行くそうです。これをおかしく思わないでください。ある人の証です。天国に行ってきた人の証です。皆さん、今まで生きてきて、どれほど多くの罪を犯しましたか?どれほど多くの人の陰口を言いましたか?どれほど沢山の酷いことを言いましたか?それが周りの人々を苦しめたことを知りません。皆さんの中にある言葉がどれほど悪いものなのか、わからないですか?聖霊様が来られると何をなさるか、わかりますか?皆さん、これを自覚すべきです。一番大切なことは自分の状態を知ることです。イエス様が十字架につけられたとき、捧げた祈りはどんなものだったか知っていますか?主よ。彼らを赦してください。自分が犯した罪がわかっていないのです。どれほど大きな罪を犯したかわからない罪、どれほど忌むべき悪でしょうか。例えば、私が、人を殺した、レイプをしてその子を殺した。その家族が傍聴に来ているのに、涙ひとすじも流さない。それを見た私たちは、本当に悪い奴だ。2度でも3度でも処刑して当然だ、私たちはそう言うでしょう。それほど大きな罪を犯していることをわかってないということです。ものすごく大きな罪を犯していることがわからない罪、イエス様はその罪のために殺されたのです。その罪を赦してくださいと祈られたのです。私がどれほど深刻な状況なのかわかりません。聖霊様が来られて一番最初に行われることは、私がどれほど大きな罪人なのかを悟るようにしてくださるのです。私は私の証をしましたが、本当に2時間ほど、涙と鼻水をどれほど流したか、本当に恐ろしくて恐ろしくて、恐れおののきながら祈りました。私の罪を赦してくださいと。自分に対してはらわたが煮えくり返る思いです。私の罪がどれほど恐ろしいものか、そのときに悟りました。聖霊様が来られて一番最初になさることは、私がどれほど汚い存在なのか。醜い存在なのか。それを悟らせて、すべて吐き出して、洗うようにしてくださいます。十字架の前で。

それなのに、自分が罪人であることも知らない人、自分がしたことの代価は受け取って当然だ、それぐらいしたのだから当たり前だろう。そこには恵みがありません。それを恵みとは思いません。イエス・キリストがしてくださったことすら恵みではありません。イエス・キリストの行われたことも当たり前です。感謝がありません。喜びがありません。感激がありません。十字架で、私のために死なれたというのに、感激がありません。なぜならば、私がした行いがあるからです。私の行いによって、私は結構努力したではないか。その代価は何だ。いいえ。凄絶に私は死ぬべきです。地獄の炎に投げ落とされるべき者です。それが分かるようになれば、そこから私を救ってくださった十字架が、その十字架が、本当に涙で、夜中に起きて涙を流し感謝します。どうして私のために死んでくださることができるのか。これが感じられなければ、この恵みが感じられません。私たちはBBSの4段階の御言葉のように、なまぬるいです。感激がありません。足を洗う水も、イエス様が来られたにも関わらず口づけすることもなく、そのようにただ受け取って生きています。なぜなら、自分は素敵な人だからです。自分がしたことに対して、代価は何か、それを考えているからです。

皆さん、しかし、何の働きもない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じるなら、その信仰が義と認められます。
私が不敬虔な者だということを知るべきです。私がこのまま終わるのはむごい。本当に地獄は、誰も行ってはいけません。どんなに大きな罪を犯したとしても、誰も落ちてはいけない所、そんな所が地獄です。The encounterという映画で見たではありませんか?私はその人が監獄に行くことを願う。しかし、地獄には行かないことを願う。大きい罪人です。あの人は地獄に行くべきだと。私たちはそれぐらい簡単に話します。しかし決してそうではありません。いくら大きい罪を犯したとしても決して地獄に落ちてはいけません。それほど凄惨なところです。そのために主が十字架につけられました。今まで私が何をしてきたか。私はどんな人なのか。私はどれほど義人なのか。私はずっと絶えずそれを探そうとしています。私は頭脳は足りないけど、美貌はあるから、愛されて当然ではないか。いいえ。決してそうではありません。私たちは何か小さなことを一つ見つけて、それで褒めてもらおうとします。それをもって高慢になります。

行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。
ダビデが出てきます。ここでどうしてダビデが出てきますか。ダビデはこの恵みが分かる人です。彼は王の身分でしたし、彼の罪を刺す預言者ナタンが来て、その罪を指摘したときに、その場で覆され、悔い改めました。彼は神様に何かを捧げたわけでもありません。詩篇51編に、全焼のいけにえを神様が願っておられたならば、私は全焼のいけにえを捧げたでしょう。しかし、神様は全焼のいけにえを喜ばない。神様は傷んだ心、砕かれた心、本当に泣きながら悔いる心。悔いる心、どうしてこんなにむごい状態になってしまったのか。どうして私がこんなにむごい罪を犯してしまったのか。どうして私の中に恵みがなく、こんな状態になったのか。いつも自分のことしか考えないこういう利己的な自分になってしまったのか。泣きながら悔い改めました。ダビデはそこで赦されるようになりました。もう一度神様に対する賛美が、彼が罪を隠しているときには、どうすればこれを隠せるだろうか、誰も知らないだろう。どれほどむごい罪を犯してしまったでしょうか。

私たちも同じでしょう。自分の罪を隠そうとしたり、素敵に見せかけようとしたり、
7,「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。
8,幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」

皆さん、二つの生き方しかありません。一つは私が何かをすることです。それを自慢する人です。もう一つは神様が私のために行ってくださったことを信じる人、それを自分のものとして受け入れる人。二つの生き方しかありません。一つは律法です。もう一つは信仰の生き方です。自分がした行い。自分は美貌はあるから、愛されるような存在だから。これはおぞましいことです。私がそのような存在だということを、ひどい状況だということを見るべきです。そして泣きながら十字架の前に来る者は幸いです。

不法を赦された。私は裁判の場に立っている罪人です。何か社会にすごいことをして褒めてもらうような存在ではありません。裁判の席に立たされ、尋問され、あの人のせいで本当に私の人生がどうなったか分かりますか?と、数多くの人が皆さんを罪に定めることができるのです。なぜなら、全て暴かれるからです。サタンも全部知っているから。神様も全部知っています。私が心に抱いた憎しみのゆえに、あの人がどんな人生を送ることになったか、どれほど恐ろしいでしょうか。全部を知られている。言い分がありません。何と言い訳できるでしょうか。その日が来る前に皆さん、十字架を掴んでください。それしかありません。私を救えるものは、罪人を救えるものは十字架しかありません。神の御子が死なれた。罪のある方が死んだのではなく、罪のない方が死なれました。罪とは完璧に無縁の方が殺された。一度も憎んだことがありません。一体どうしたらこんなことがあり得るのか。どうしてイスカリオテのユダを愛することができるのか。どうして、ペテロに対してよみがえった後に、どうしてそうされたのか。どうして一度も口を開かれないのか。このような方がおられるのか。その方に期待するべきです。その方だけが皆さんを救うことができます。自分の中にある深刻な罪を見るべきです。そして嘆くべきです。おお、どうしよう。この死の体から、使徒パウロがそのように告白しました。私たちは当然そのように告白するべきです。あれほど義人だった人もあのように告白するのに、私たちはなおさらではありませんか?使徒パウロはあのように告白したから、毎日死んだから、毎日自分は十字架で死んで毎日十字架でよみがえったから、本当にイエス様を一番見習った人生になれたのです。皆さん、自身を義人だと思わないでください。

罪人の中の罪人と思ってください。そうするときに毎日感謝が溢れます。毎日喜びが溢れます。どうしていつも喜びますか?絶えず祈りますか?いつも感謝しますか?まさにこれです。すべてが恵みになります。この生き方は、すべてが感謝になります。すべてが感謝です。死ぬはずの病気だったのに、そこから誰かのおかげで治ったと考えてみてください。死ぬべきだったのに、生きた。死んでよみがえる、それしか道がありません。恵みなのか。当然受けるべきものなのか。感謝があるか?そうでなければ、私が働いたことの報酬なのか。

皆さん、本当に毎日感謝の溢れる人生を一度も経験したことがないというのならば、すみませんが、皆さんは救われているのではありません。本当にすみませんが、それは救われているのではありません。狭い門に入りなさいとまで仰いました。救いは難しいです。まず、探す人が少ないです。ほとんどがそのように生きていません。イエス様の十字架の前に歩む人はごく稀です。教会の中だからといって、皆が救われると思いますか?そうではありません。もしそうだったなら、どれほど良いでしょうか。イエスを求めてください。どうしてここまでするべきだったのでしょうか。本当に私のためになさったことならば、神様、本当に私のためにここまでする必要がありますか?祈ってみてください。私は自分がそれほどまで大きな罪を犯した罪人だと考えていません。そのように祈ってみてください。そういうときに希望があります。ただあまりにも簡単に頭でだけ理解して終わろう、そのようにしないでください。

幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人
私たちはアブラハムのようなことを何ひとつしたことがありませんが、神様は、私があなたをこのようにしてくださった、それを信じた。その信じたことをもってあなたは義人だと仰いました。同様に、律法がある前にも、アブラハムがそのように信じて義と認めてくださった。あなたのために、これほどまでに。これは裂かれる私の体です。このぶどう酒を飲みなさい。あなたがたのために流した私の血です。これは契約です。ContractではなくCovenantです。この契約は同等な関係で結ばれるものではなく、信じるときにその約束が私のものになるわけです。同等な立場での契約ではありません。これを飲めば、これを食べれば、あなた方が新しい人生を受けるようになる。新しい血があなたがたの中で作られる。新しい人生。死んでよみがえるようになる。私たちがそのような人生、救いの感激、救いの喜びがあふれるそのような教会になることを願います。

祈ります。
ハレルヤ。主よ。感謝します。律法的に私たちが神様に背き、神様と等しくなろうとし、私が自分の行いを誇り、褒めてもらおうとし、比べ、上に立とうとするその醜い罪を、おぉ、主よ、私たちを憐れんでください。主を知ることのできる恵みを注いでください。父よ。私たちを赦してください。父よ。彼らを赦してください。彼らは自分のしていることが分かりません。あなたのその義を、その愛を黙想しながら、私たちがどれほど大きな罪人なのか、神様の愛を疑い、自分だけを満たそうとしました。他の人に傷を与えました。おぉ、主よ。助けてください。罪を告白して主の御前に歩み出る私たち一人ひとりにしてください。恵みが必要です。主の赦しが必要です。わたしがしたことに対して代価をもらおうとするのではなく、そのように考えないようにしてください。おぉ、主よ。感謝します。いつも十字架を考えて、感謝をもって涙で感激する私たちとなりますようにしてください。イエス・キリストの聖名によって感謝して祈ります。アーメン。