説教

主が受け入れるいけにえ

主が受け入れるいけにえ マルコ12:41-44、サムエルⅠ16:7 マルコ12:41-44 41,それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。 42,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。 43,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。 44,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」   サムエルⅠ16:7 7,主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 サムエルが油を注ぎに行きました。神様の御言葉に従順して新しい王を立てるために行きました。ダビデの父、エッサイのところに行きます。その家の長男エリアブが出てきますが、非常に素敵な容貌です。サウルのように背も高くて肩幅も広く、本当に男前です。それで神様が本当に正しい選択をされたと思っていると、サムエルに神様の御声が聞こえてきます。何と仰ったのかというと、彼の容貌や背の高さを見てはならない。私が見るのは、人が見るようには見ないからだ。この御言葉を私たちは考えてみましょう。神様がご覧になるとき、人が見るようには見ていない。私たちと同じふうに神様は見ない。世の中が持っている判断の仕方、その基準をもって神様は決して人を見たりしない。 私たちはそうでしょう。私たちは成長しながら、最近ずっと黙想していることですが、それは何かというと、人は作られていくということです。何もない状態から形成されていくことを私たちは知っています。数多くの目で見るもの、耳に入るもの、そして本を読んだり、テレビを見たり、そのあらゆることを通して私たちは作られるのです。一番簡単なたとえで、必要ないものなのに、コマーシャルを見て、私はその品物を買うようになる。とすれば、私がその品物を買ったのでしょうか。そのコマーシャルが私を買わせたのでしょうか。私が買いましたか?でなければ、買わされたのでしょうか。私たちはこのように数多くの人々の基準、判断によって作られていくのです。 一番簡単なたとえで、担任先生。小学校の先生。小学校の先生は非常に重要です。なぜなら、小学校の先生は子供を褒めます。誰を褒めますか?勉強ができる子供を褒めました。本当に上手にできたね。算数が良くできると。どうしてこんなに算数が良くできるの?そこで終わればいいですが、そこで終わらないことが問題です。誰かが褒められる様子を見ながら、私も先生に褒めてもらいたい。私も先生に認めてもらいたい心が生じるのです。先生は他の人と比べて褒めたのでないとしても、これが生じてしまうのです。不思議でしょう。もちろん、そのような先生もいます。私が今まで話したように、サタンの手口というのは、羞恥心を入れることです。君はこれがないじゃないか。君は算数ができないだろう。君はいま裸ではないか。このようにできてないじゃないか。真面目にやっていることは一体、何だ。相手を動かす一番簡単な方法がサタンのやり方です。何かがないことを強調し、あなたがこのように生きるとみじめになるという、未来がみじめになることを強調します。それで、羞恥心を入れて、動かします。これがサタンの方式です。先生がそのような方法を使うこともできます。よくできる子だけを褒めればいいですが、目的があります。勉強ができれば褒められる。そのようなことがいくらでもあります。でも、その先生がただ褒めてあげたとしても、他の学生は私も褒めてもらいたい。私も認めてもらいたい。先生の喜びとなりたい。このような心が生じてしまいます。しかし、自分がいくら頑張っても算数が分からない。自分はいくら努力しても、どうしていま勉強しなければならないのか、その理由が分からない。だから結局自分は先生を喜ばせることができない。疎外感を感じます。自分がうまくできないから、先生を喜ばせられない自分の姿を見るようになります。両親を喜ばせられない自分を感じるようになります。そうすると結局は挫折感、絶望感、こういったものにさいなまれるようになります。皆さん、小学生の時からそれがあります。このような感情に対して対処していかなければならないのに。感情に対処できなければ、とてもゆがんだ方向に行くかも知れません。 自分を認めてくれることを願っていますね。女の子たちにカッコいいと言われたり、自分が一度も褒められたことがない。なぜなら、たばこを吸っているから。中学生なのにたばこを吸うと格好いい、なぜなら勇気があると思うから。先生たちも禁止し、両親たちも禁止しているのに、たばこを吸っているから、君は本当に勇気があるね。格好いい。それで格好いいという言葉に、ああ、格好いいんだ、そのように慣れてしまいます。自分が自分を作っていくわけではなく、人々の言葉によって自分が作られていくのです。感情の中にある絶望感、挫折感、疎外感、その感情の中にある深い欲求は何ですか?重要なのは欲求です。欲求が満たされれば、人は嬉しくて平安で、感謝することができます。しかし、欲求が満たされないから不安で、もどかしくなり、死にそうになり、苦しくなるのです。世の中が作ったその文化はずっと羞恥心を与えて、それをもってその人を動かすから、ずっと間違った欲求が生じてしまいます。例えば、私にも二つの欲求があります。私も先生を喜ばせてあげたい。私も両親を喜ばせてあげたい。しかし、私はそれがあまりよくできないし、私がうまくできるのはこれだ。私がしたいのはこれだ。私がしたいのはこれなのだけど、両親が喜ばせて先生を喜ばせることは別の何かです。二つの欲求が一緒にあるときに私はどちらに従って生きるべきでしょうか。私は何に合わせて、どこに調子を合わせれば良いでしょうか。両親に褒めてもらいたい。先生に褒めてもらいたい。それは悪い感情ではありません。それは大丈夫です。 しかし、これが衝突します。どうして社会は私がしたいことを思い存分できないようにするのだろうか。その文化は、数学ができる子に数学が良くできるねと言って、国語ができる子には国語が良くできると、どうしてそのように言えないでしょうか。このような間違った文化があります。何かが完璧にならなければならないという文化があります。私たちはこのように自分の欲求があり、もちろん全部自分の欲求なんだけど、褒めてもらいたい。外部の期待、そして私がしたい欲求、外部の期待に応えたい欲求。私がうまくできることと、私がしたいことの欲求、それがぶつかります。それが対立して衝突します。 わたしは人のようには見ていない。人は容貌を見て、人は背の高さを見て判断する。だから人々はその人がどれほどうまくできるか、それだけを判断します。その中にある欲求、その中にある葛藤。難しくて厳しくても、一生懸命生きているその子の感情、欲求、それを重要としないで、数学の成績がどれほどなのか。国語はどれぐらいできるのか。それでその子を判断します。もちろん、小学生の時はそれがないかもしれません。しかし、中学校、高校は本当に厳しいです。なぜならば、大学入試というもので、全てを判断するからです。世の中がそれで全部を判断するからです。 以前、子供を育てる愛の技術という本がありました。感情コーチタイプの学者の話です。そこで、私が非常にショックを受けたことがあります。褒めても、それが毒になるかもしれない。驚きました。例えば、自分の子供を褒めてあげます。あなたこそ最高だよ。あなたはとても善良だね。そう褒めました。しかし、そのように褒められた子は突然、不安になります。何が不安になるのかというと、私は昨日、先生にうそをついたのに。あなたは最高だよ。何もかもがこんなにうまくできるね。そのように言われたけど、昨日は友達から、君はそんなことも出来ないの?と、そのようなことを言われた。そうすると、その褒め言葉がかえって毒になります。褒めてあげるときは、そのように褒めてあげてはならない。このような部分がこうだから良かった。読書感想文を発表して賞をもらいました。あなたは最高だ、すばらしい作家になれるよ、と。しかし、その子は自分よりもすごい子は幾らでもいると思っています。褒めてあげようと思うなら、何が良かったのか、その部分がどのように良かったのか、そのように具体的に褒めてあげてください。 皆さん、私たちが子供をほめる。私たちが何かをしてあげて、私がよく話すことですが、スンワン君に絵が上手ねとずっと話してあげれば、自分は画家になるべきだと思うんです。この誉め言葉は良いことでしょうか。悪いことでしょうか。神様がその魂に吹き入れてくださった使命というものがあるのに、私たちの誉め言葉が画家にさせてしまうこともあります。私たちの間違った誉め言葉が変なところにその子を導くかもしれません。スティーブ・ジョブスが人生の一番大切な瞬間になるときに、「自分がもうすぐ死ぬという事実は、大きな決断をする手助けをしてくれる、人生で最高のツールだ。外部からの期待、プライド、恥をかいたり失敗したりすることへの怖れなど、ほとんど全てのものは死と向き合うと消え去る。そして本当に大切なものだけを残してくれるんだ。」 私たちは、どうしてこのように行動しているのか。今この瞬間、入ってきた感情は何か? 私は作られています。この時に、このような感情が生じてしまう、そのような自分がすでに作られています。そうでしょう。 ヨハネ8章にあの女が石に打たれて死ぬときに、恥ずかしいことなど大したことではありません。大きな罪を犯して非難されて当然でしょう。姦淫というものはそうです。職業が遊女だったというのではなく、姦淫というのは、もともと夫がいるのに浮気をしたわけです。石に打たれて当然な女です。遊女ではありません。石に打たれて、非難されて、後ろ指をさされて、羞恥心を覚えるべきです。しかし、他の人々がそれをするべきではありません。石をその人に投げられるわけではありません。その女は恥ずかしいことなどまったく問題ではありません。なぜなら、死ぬことになっているから。死の前ではそれは重要ではありません。何一つ重要ではありません。恥ずかしいことは何一つ重要ではありません。そうでしょう。死ぬ羽目になったから。 私たちは、皆さん、全てのことがそうです。自分が自分を、外部の期待に、私がこれができる。この部分で私が上手だという自慢。そしてできない部分においてはものすごい羞恥心、みんなそれぞれあります。ない人はいません。高慢な人はいつも高慢だと思いますか?いいえ。高慢という感情は、その人の心の状態が、一方では羞恥心が強いということです。羞恥心を持っているということはほかの部分では私がものすごく高慢だという証拠です。なぜならば、他人と比べるからです。社会は他人と比べながら自分の価値を決めるからです。他人と比べながら、自分を作っていくからです。ですから、これに対して切り落とすことがどれほど重要なのかしれません。もう一度読んでみますね。外部からの期待、プライド、恥をかいたり失敗したりすることへの怖れなど、このすべてが私たちを押さえつけています。 私たちは過去から恥をかいた記憶があるかもしれません。そして未来への不安はないか?再び恥をかくかもしれない。それが怖いわけです。過去にものすごく恥ずかしかったこと、みんなは褒められたけど、私だけが褒められなかった。色々あるかもしれません。そのような羞恥心が再び起きるかもしれないから怖い。私たちがこれに完全に捕まえられています。世の中はこのような羞恥心によって人を動かすから、君はこれが足りないじゃない?これを持っているべきではないか。最低限これがあれば幸せになれる。最低限これがあれば人間らしく生きることができる。それが、人が見るものです。それが世の中の見方です。神様は、私は人が見るようには見ていません。私が見るのはその中心、心です。どれほど辛いか、どれほど大変なのか。どれほど苦しいのか。それを皆さん、他人は、それを暴くことができません。あの女のように。神様はそのような方式を嫌います。誰が石で打つことができるのか?あなたがたは誰もそのようにすることはできない。その女を石で打ってはならない。 私は結局作られた私です。世の中で見て聞いてあらゆるインプット、感じて、人間は霊的な動物です。言葉は素敵だけど、よく考えてみるとプレッシャーをかける言葉、霊的にそのようになるかもしれないじゃないですか?それを全部感じるんです。それが全部インプットになります。そのようなインプットによって作られた私。 磁石を作るときにその磁石をどのように作るのか分かりますか?皆さんよく分かりますね。磁石で縫い針をこすると、縫い針は磁石になります。そうですね。磁力を持っている鉄などをこすりつづければ、それが磁石になります。いくらでも磁石を作ることができます。 私たちもそのように作ります。サタンがそのようにこするわけです。こうであるべきだ。他人を褒めたのに、私は羞恥心を覚えている。私が非難されたわけではなく、他の人が褒められただけなのに、私が恥ずかしく思う。これはどれほど間違ったことでしょうか。 今日の本文に戻って、神様が見た中心は何か。神様は深いところを見ておられます。その魂の深いところを見ておられます。今日の本文には献金。私はこの説教があんまり好きではありません。なぜなら、この本文は非常に重要なものだからです。私がどうしてこの説教が好きじゃないかというと、この説教の内容が重要じゃないからではなく、私もそのような弱さがあります。あの教会に行くといつもお金のことを話している。あの教会に行くと、いつも献金しなさいという。あの牧師先生はお金だけを欲しがる。そのような言葉が聞きたくなくて。これが私の中にある弱さですよね。真理を伝える者がそのような弱さを持っていてはいけないでしょう。そうでしょう。だから、この説教をすることを嫌がっていましたが、しかし、ここに重要なことが書かれているから、これを読むことにしました。 多くの人が献金をしましたが、あるやもめがレプタ銅貨2つを投げ入れました。それは幾らか。レプタ銅貨1つと、1デナリがありますね。1デナリは労務者の一日の賃金。日本でいうと1万円。1レプタは1万円の128分の1です。計算すると78円ほどです。それが2つだから、約160円です。ある人が献金をしました。160円です。ある金持ちは1万円入れました。5000円入れました。イエス様が見ると、あのやもめが一番たくさん投げ入れたのです。 皆さん、この神様は、なんと良い神様でしょうか。ただ単にお金の量で計算しません。決して。どれほど多くのものを持っていてその中から幾ら入れたか、それを見ます。いつも神様は、見てください。イエス様はなんと仰ったかというと、このように話しました。 44,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」 これは簡単に言うと、分数です。私が100を持っている。100を入れたならそれは1という完全なものです。私が神様からいただいたものが100なら、そこから神様に100を捧げるなら、それを神様は完全だと仰います。しかし私たちはいつも100をいただいて、いつも1を捧げます。そうでなければ、1万をもらったのに10を捧げるかもしれません。10万、100万をもらったのに1万をさ捧げるかもしれません。それゆえ、100万を捧げたか、10万を捧げたか。100円を捧げたか。200円を捧げたかが重要ではなく、受けたものの中から幾ら捧げたか。使徒パウロは言います。私たちがもらってないものなどあるのか?そうでしょう。恵みというのは、まさにもらったものです。私たちは全てをもらったのです。両親から愛を僅かしかもらわなかった、そのような憎い両親だとしてもその両親を赦し愛するならば、この子の両親に対する愛はどれほど完全なものでしょうか。両親にものすごい愛をもらったのに両親に憎しみを返す。お父さん、お金がたくさんあるのに。私がお家を買うと言ってるのに、そのお金もくれないの?お家を買うお金の半分ぐらいくれ。そうすれば私は幸せだ。そのときからその両親と子供の関係が途切れて、両親を憎みます。どれほどたくさんもらいましたか?なのに結局憎みます。 これはお金だけの問題ではありません。あらゆることです。神様にいただいた全てです。ギターがすごく下手なのに、私は捧げるものがこれしかありません。私は賛美がすごく下手です。賛美には音程があるのに、歌うと音程が取れず一定です。聴く人々はあんまり恵みを受けません。しかし神様はそれに関心がありません。どれほど賛美が上手か。それは見ません。その音程を見るのではなく、どれほど大変な状況で、人々の目を気にすると歌えないけど、あの子が私に捧げようとして恥を覚悟の上で歌うなんて。それはものすごく大きいことです。 このやもめは一週間の生活費を完全に捧げました。だから完全なものを捧げたわけです。イエス様の目には、そう映りました。私たちがよく話す李ヒドン長老がいますね。世界貿易センターの総裁です。トップです。President。ものすごい存在です。この方はお金がありません。ものすごくお金を稼ぐじゃないですか?本当にたくさん稼ぎますが、いつもお金がありません。なぜなら全部捧げるからです。その方がもらったビジョンがそれです。神様が彼を高い地位に就かせるときに、突然高め始めたときに彼に与えたビジョンは何かというと、あなたは宣教師を、星のように輝く、多くの人を救う宣教師を、数えきれないほどの星を支援しなさい。そうすれば星かける星の報いではないか。だから本当に多くの宣教師を支援しています。皆さんも手紙を書いたらお金を支援してもらうことができます。しかし、その方の娘が幼い頃、その方に質問したそうです。その時は副総裁の時ですが、お父さん。お父さんの会社の人々はみんなロレックスのような高い時計をつけているのに、どうしてお父さんはいつも安っぽい時計をつけているの?そこで子供を自分の会社につれていて見せてあげました。何を見せたかというと、ロレックスをつけた人々が自分の前で皆挨拶をするそれを見せてあげました。そのあとに娘に話した言葉が、よい時計をつけたからといって、その人がすばらしいというわけではない。神様が高める人が本当に高い人だ。 最後に皆さん、何かをうまくしなければならない。それは世間の方式です。神様はその中心を見ます。皆さんがしている奉仕を、皆さんが世間の方式になれているから、うまくしなければならない、これがプレッシャーです。そうでしょう。ものすごいプレッシャーでしょう。しかし皆さん、覚えるべきです。神様に私たちが救われるために私たちがすべきことは何もありません。非常に重要なことです。私はたまにそのことを考えます。バプテスマのヨハネを考えます。本当に重要な人だったし、イエス様が苦しみを受けないようにする本当に重要な人だったのに、イエス様はどうして一度もその人に、君はもうちょっとよくやるべきだよ、そのように言わなかった。彼の使命を受け継いだペテロにも、少しうまくしたら楽になるんじゃない?など一言も言いません。復活された後にもどうしてあんなことをしたのか、と一言も言いません。神様は私たちを頼りません。これがどれほど重要なことか。ならば、私は結局神様を喜ばすことができないのでしょうか。それは問題ではありません。数学の点数が0点だとしても、私は愛されている存在です。生まれるときから私は大切な存在です。それと関係なく私を愛しているということです。 最後に一つ例えて、終わります。宣教師たちがたまに聞く巡回宣教師の金ヨンイ宣教師という方がいます。全世界を回って宣教師を教育する方です。宣教師たちが宣教地で大変で韓国に帰ろうとすると、とりあえず退路を遮断しなさいと。とにかく恵みを与えて帰れないようにします。この宣教師さんは、本当に神様が用いてくださる方です。子供が5人いるのですが、長男がアフリカ宣教に行きました。そこに行くには飛行機を2~3回乗り換えなければならない、奥地です。そこの責任者の宣教師が韓国に帰ってきました。自分の息子が宣教師の元にいるから、どうですか、私の長男はうまくやっていますか?うと聞いたそうです。うまくやってますよ。しかし、先生、問題があります。あまりにもうまくやろうと張り切っています。あまりにも緊張しています。その話を聞いて、金ヨンイ宣教師が何回か乗り換えて息子に会いに行きました。何回も乗り換えて、息子に会い、たった一言だけ言って帰ってきました。自分も忙しいから。何と話したかというと、子供を呼んで、「君がうまくできても、君がうまくできなくても、君は私の息子だ。わたしは帰る。」それだけ言って帰ってきました。この言葉を言い残して帰ってきました。しかし問題は、帰り道の飛行機の中で自分が話した言葉が自分に適用されるわけです。神様が自分にその言葉を語りかけてくださっているです。「それが私の心だ。君がうまくできても下手でも私の子供だ。」帰りの飛行機の中で神様がその言葉をずっと、「君がうまくできても下手でもずっと私の息子だ。私は君を応援する。」こんなことがあり、その宣教師は帰り道でもっと恵みを受けて涙ながらに帰りました。 皆さん、社会が作った私ではなく、神様が見る私。神様が考える私。それを皆さんが考えてください。神様は中心をご覧になります。来週から順番で神様に賛美を捧げてみましょう。なぜなら、詩篇69編30節-31節 30,歌をもって私は神の御名をほめたたえ感謝をもって私は神をあがめます。 31,それは雄牛にまさって主に喜ばれます。角が生えひづめが割れた若い牛にまさって。 鳩よりも、羊を捧げるよりも、牛を捧げるよりも、まことなる賛美。私の心からの告白と賛美を主は喜びます。ここに出てきて賛美をするけど、どれほど歌が上手だったか。その人がどれほど上手か。それは問題ではありません。ここに出て神様だけに捧げる。これを訓練することができる。人々の目を気にせず、神様だけに捧げる。このような訓練が必要です。そうしたときに、神様がそれができたときに神様がどれほど喜んで受け入れてくださるでしょうか。音程など全部間違っても神様は本当に喜んでくださいます。雄牛を捧げるよりも歌を1曲、心を込めての賛美を喜んで受け入れてくださいます。私たちが神様を喜ばせるまことなる交わり、まことなるフェローシップは、神様と私との関係がしっかりと建てられれば全てが良くなります。私たちの関係がどうして辛くなるかというと、ずっと他の人々に判断されるかもしれないから恐れたり、それで疲れてしまいます。そうすると関係が深まりません。深くなるというのは徐々になるものなのに、表面にだけぶつかります。なぜなら怖くて、告白が怖い。透明でもなく、神様が重要に思ういけにえは決して、どれほど多くのものを捧げたかや、どれほどうまくできるか、上手かではありません。どれほど心を尽くしたか。どれほど練習したか。どれほど捧げたかどうか、それを見ています。歌の上手い人が、練習を一度もせずに、来て歌ったら人々の耳には恵み深いかもしれません。何の練習もせず、何の感動もなく捧げるものは私は受け入れない。どれほど感謝でしょうか。私たちの神様はどれほど良い神様でしょうか。喜びのいけにえを神様に捧げる私と皆さんになることを、主の御名によって祝福します。 祈ります。 感謝します。主が受け入れられる、主が喜ぶいけにえ。捧げもの。私たちが自分をアピールしようとしたり、他人の評価に、他人の判断に左右されたり、小さくなったり、怖がったりそのような姿を持つときがあります。主から作られた私たちだということを分かるようにしてください。主よ。訓練することを願います。まことに神様に心の中心を神様に捧げる者としてください。イエス・キリストの聖名によって感謝してお祈りいたします。アーメン。

幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人

タイトル:幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人 本文:ローマ人への手紙 4章1節‐8節 1,それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。 2,もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。 3,聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 4,働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 5,しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。 6,同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。 7,「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。 8,幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」 ローマ書3章までは救いに関するすべてを話した状況で、その救いが今日の私たちにも適用されるという論理が4章で展開されています。3章で福音の深い世界がすべて明らかにされました。。この4章は、今日の私たちにとっても救いが、キリストの行われたことを信じる私たちのものになる。4章はある意味で非常に重要です。2000年前に行われた主の十字架がどうして今日の私たちにまで適用されるのか。 2節 もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。 3節 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 4節 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 5節 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。 この部分について少し考えてみたいと思います。この部分は非常に重要です。前回も私の話の中で、4Fの工事をした話をしました。私たちはいつ一番うれしくなるのか。自分が働いたことに対して誰かが認めてくれるときに非常にうれしくなります。自分が何かしたことを誰かが認めてくれて、ほめてくれたときは非常に気分がよくなります。そうですよね。私がビジネスをする人ならば、私が企画書を提出したら上司がそれを採択してくれてほめてくれた。私が一生懸命に書いた論文が優秀論文として選ばれた。それで多くの人々がその論文によって私に一目置くようになった。それはすごいことです。そのように私のしたことが認められたときほどうれしいことはありません。人間はそれにしがみついているのです。人々の承認、誉め言葉、そして栄光。「あなたのおかげだ」という言葉を聞きたがります。しかし問題は、この働く者にとって、報酬は恵みではなく、当然支払うべきものとみなされます。そうですよね。私がしたことに対して、私が代価をもらうのは当然だ。ある人が本を一冊書きました。書き上げるまで本当に努力しました。身体はとても痩せ細り、何時間も机の前に座って書き続けました。昔は、書き終えることを脱稿と言いました。パソコンの時代ではないから、原稿用紙にそれを書いたり消したりします。出版社に自分の原稿を渡すのはとても難しいことです。脱稿までの難しさ、厳しさ、それを書き終えた後で認められたらどれだけうれしいでしょうか。どれほど飛び上がるほどうれしいでしょうか。自分が投資したものがあったから、それだけの努力をしたから、それが認められるのは当たり前のことです。うれしいことだけど、ある意味それは当たり前で、それは恵みではありません。それは感謝ではありません。それは私がしたことに対する当然の報いです。 問題はここで発生します。いくら教会に通ってイエス様の恵みを賛美しても、自分の中に恵みが感じられないというとき、それは自分が行ったことの当然の代価だと思っているからです。人生には2つの生き方があります。一つは自分が行ったことに応じて神様に代価をもらおうとすることです。自分がした行いを神様に認めてもらおうとすることです。他の人々に褒めてもらうもらおうとすることです。この人生には決して感謝がありません。決して恵みではありません。これはつまり、私がもらうべきものをずっと計算しているわけです。感激がありません。喜びがありません。このような喜びはすぐに終わってしまうものです。またすぐに企画書を書かなければならないし、原稿を書かなければなりません。何かの努力によって認めてもらおうとします。これがまさに私たち人間の中の惨めさです。 見てください。いつも私は皆さんをどこに導いていきたいかというと、創世記3章に導いていきたいです。なぜならば、その箇所が本当に深いからです。たくさん黙想してみてください。アダムのその状況を黙想してみてください。彼はどうして取って食べましたか?それを取って食べた後に彼が裸になったわけではなく、もともと裸でありました。しかし、それを取って食べた後に自分が裸であることに気づきました。最初から裸だったのに、その実を取って食べた後に自分が裸であることに気づきました。そして隠れました。隠れたときに、神様が、アダム、どこにいるのかと聞かれたとき、私は自分が裸なので恐れて隠れました。そのように言っています。彼の間違いは、取って食べたこと、それは過ちでしたね。しかしどうして取って食べてしまったのか?それは取って食べてはいけないのだという信頼が砕かれたからです。サタンが、「あれは取って食べていいんだよ。あれを取って食べると神のようになる。」これです。ですから、私を愛するからそれを私が取って食べないようにしたのだ、とは考えず、それはとても良いもので、それは非常に良いものだから、自分だけのものにするために、ひょっとしたら私がそれを取って食べて神様のようになるかもしれないことを恐れて、神様はそれを私に隠したのだ。信仰が敗れました。愛において信仰がなければ何物でもないですね。それは愛の関係ではありません。 愛は関係です。人間ほど両親が弱い存在はありません。人間ほど、両親が子供を産んだ後、その子供を一から面倒を見なければならない存在はありません。動物を見てください。子牛は生まれて何時間か過ぎたら、お母さんが身体を舐めてあげたらその日のうちに立ち上がります。立ち上がってお母さんの乳を探して飲みます。動物は皆そのようにします。人間の赤ちゃんはそうですか?そうではありません。決して、そのような力はありません。両親が愛するようになっています。そうしないと命の危機にさらされます。神様は人間を始めから、両親が愛を与えるように創っておきました。どれほど弱い存在ですか?愛の関係が形成されるように創りました。両親の愛を受けて成長するように創りました。愛というものは関係です。しかし、信仰がなければその関係が砕かれてしまいます。それは何の関係でもありません。信仰がなければ、それは何の関係でもありません。アダムは神様を信じられなかった。私を愛しておられることを信じられなかった。それは関係が途絶えたということです。それが霊的な堕落です。霊的な堕落があって取って食べたわけです。そうなると、取って食べた結果気づいたことは何ですか?私は何者でもないのだ。ですから、彼は罪人の状態でもなく、義の状態でもありません。原罪とは、信仰が砕かれたことです。神を信じられなかった。私が神様のようになろうとしたし、神様と等しくなろうとしたこと。神の国で私が自分の国を建てようとしたこと、それが原罪です。その後、神様はすぐわかります。アダム、あなたはどこにいるのか。隠れましたと言ったら、何と仰いますか?善悪の知識の木の実を取って食べたのか?すぐにわかります。何と仰いましたか?あなたが裸であることをだれが言ったのか。誰があなたはみすぼらしい存在だ、みっともない存在だと話したのか。裸というのは何もない状態です。義もなく、罪もない状態です。しかし、取って食べた後、あなたは何者でもない、そのときから自分で自分の服を作り始めます。そして問題は、それがどれほど大きな罪の状態なのかわかっていません。 同じではありませんか?罪を犯す前と、罪を犯した後の裸の状態は同じです。同じだけど、何が変わりましたか?私がこれから何かをして私の王国を建てよう。私が何かをして代価をもらうのは当たり前だというのです。この国の悲惨さを知るべきです。惨めさを知るべきです。 『光あるうちに』この本を買って読んでみてください。この悲惨さがわかりませんか?ある人が「あなたは母親として自分がそれで良くやっていると思っているの?」と、そんな風に聞いたら、母親の心は砕け散ります。「あなたは、夫として、妻として、私の夫でいる資格がありますか?私の妻でいる資格がありますか?」すぐに心が砕け散ってしまいます。私たちが確かに理解すべき世界があります。今私が生きている人生は、本来何でもないものでしたが、その中で働いて代価を受ける人生、そんな人生を続けたいですか?そうではありません。何が違いますか?堕落はそれではなく、背きです。反逆です。クーデターを起こして、本当にあり得ない罪を犯しました。だから、私が何かをしたから何をもらえるような状態ではありません。私は罪人の状態です。罪人の状態私が囚人の服を着て、そこで一生懸命努力したからと言って、それに代価が与えられて、その状態で生きるということがあり得ますか?このような状態です。私たちはすでに惨めな状態にあります。 私たちはどれほどの罪人なのか、一つの譬えがあります。皆さん、泥棒と陰口、どちらがより大きい罪だと思いますか?陰口をすること。二人が一人について陰口をすることと泥棒と、どちらのほうが大きい罪だと思いますか?例えば、私が大切にしているネックレスが盗まれた。高かったのに勿体ないね。記念日にもらったのに。。それぐらいで終わりますが、泥棒に入られたからといって自殺する人はいないでしょう。しかし、他人に陰口されて死んだ老人も多いし、そのような少年・少女の話も多く聞きます。ある譬えがあります。ある嫁が友人たちとこんな話をしていたそうです。うちの老人はとんでもなく食いしん坊だ、あの歳にもなってご飯を3杯も食べている、と。すると、それを聞いた義理のお父さんが怒り、自殺しました。食事を拒み続けて餓死しました。また、ある中学生たちが、あの二人は付き合っていると噂を立てたところ、二人ともそれぞれ自殺してしまったそうです。精神薄弱児の30%は、母親が妊娠3ヶ月までに精神的に強いショックを受けたことがあるとのことです。どちらがより大きい罪でしょうか。ローマ書1章でも、陰口を言う者。皆さん、陰口を言ったことのない人がいますか?陰口を言うのは罪人です。私たちは自分に都合よく罪を考えます。神様の御国では、それは非常に重い罪です。だから、私がしたことをある程度ほめてくれる世界ではありません。私は死ぬことになっています。私は決して天国に行けない。地獄に行くことになっています。そのような状態で私を救ってくれる人を探しています。少しだけ状況が軽くなることを願っているわけではありません。私は救いが絶対に必要な存在だということを知るべきです。誰かの助けなしには、私の罪は自分が既に犯したものです。20年生きてきて、30年、40年生きてきて、どれほど多くの罪を犯して生きてきましたか?皆さん、憎しみは、人間だれもが感じるのではりませんか?その憎しみの故に、その魂がどれほど破壊されるか、どうやってわかりますか?皆さんは死刑を受けるのです。それは既に自分が犯した罪のためです。それをどのようにして返しますか?返すことのできないものです。私の善の行いによって返せるものではありません。私たちは適当に、皆がそのように生きるでしょう。自分がしたことを褒めてもらったり、代価を貰いながら生きるでしょう。そうではありません。監獄でそのように生きているのです。監獄で少し良いことをしたからといって、神様はそれは死刑、死だと言っています。地獄だと言っています。 過去のその罪をどうやって返すことができますか?子供たちが死ぬと、殆どは天国に行くそうです。これはイエス様を信じる信じないに関係ないそうです。子供たちが死ぬと殆どが天国に行くそうです。これをおかしく思わないでください。ある人の証です。天国に行ってきた人の証です。皆さん、今まで生きてきて、どれほど多くの罪を犯しましたか?どれほど多くの人の陰口を言いましたか?どれほど沢山の酷いことを言いましたか?それが周りの人々を苦しめたことを知りません。皆さんの中にある言葉がどれほど悪いものなのか、わからないですか?聖霊様が来られると何をなさるか、わかりますか?皆さん、これを自覚すべきです。一番大切なことは自分の状態を知ることです。イエス様が十字架につけられたとき、捧げた祈りはどんなものだったか知っていますか?主よ。彼らを赦してください。自分が犯した罪がわかっていないのです。どれほど大きな罪を犯したかわからない罪、どれほど忌むべき悪でしょうか。例えば、私が、人を殺した、レイプをしてその子を殺した。その家族が傍聴に来ているのに、涙ひとすじも流さない。それを見た私たちは、本当に悪い奴だ。2度でも3度でも処刑して当然だ、私たちはそう言うでしょう。それほど大きな罪を犯していることをわかってないということです。ものすごく大きな罪を犯していることがわからない罪、イエス様はその罪のために殺されたのです。その罪を赦してくださいと祈られたのです。私がどれほど深刻な状況なのかわかりません。聖霊様が来られて一番最初に行われることは、私がどれほど大きな罪人なのかを悟るようにしてくださるのです。私は私の証をしましたが、本当に2時間ほど、涙と鼻水をどれほど流したか、本当に恐ろしくて恐ろしくて、恐れおののきながら祈りました。私の罪を赦してくださいと。自分に対してはらわたが煮えくり返る思いです。私の罪がどれほど恐ろしいものか、そのときに悟りました。聖霊様が来られて一番最初になさることは、私がどれほど汚い存在なのか。醜い存在なのか。それを悟らせて、すべて吐き出して、洗うようにしてくださいます。十字架の前で。 それなのに、自分が罪人であることも知らない人、自分がしたことの代価は受け取って当然だ、それぐらいしたのだから当たり前だろう。そこには恵みがありません。それを恵みとは思いません。イエス・キリストがしてくださったことすら恵みではありません。イエス・キリストの行われたことも当たり前です。感謝がありません。喜びがありません。感激がありません。十字架で、私のために死なれたというのに、感激がありません。なぜならば、私がした行いがあるからです。私の行いによって、私は結構努力したではないか。その代価は何だ。いいえ。凄絶に私は死ぬべきです。地獄の炎に投げ落とされるべき者です。それが分かるようになれば、そこから私を救ってくださった十字架が、その十字架が、本当に涙で、夜中に起きて涙を流し感謝します。どうして私のために死んでくださることができるのか。これが感じられなければ、この恵みが感じられません。私たちはBBSの4段階の御言葉のように、なまぬるいです。感激がありません。足を洗う水も、イエス様が来られたにも関わらず口づけすることもなく、そのようにただ受け取って生きています。なぜなら、自分は素敵な人だからです。自分がしたことに対して、代価は何か、それを考えているからです。 皆さん、しかし、何の働きもない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じるなら、その信仰が義と認められます。 私が不敬虔な者だということを知るべきです。私がこのまま終わるのはむごい。本当に地獄は、誰も行ってはいけません。どんなに大きな罪を犯したとしても、誰も落ちてはいけない所、そんな所が地獄です。The encounterという映画で見たではありませんか?私はその人が監獄に行くことを願う。しかし、地獄には行かないことを願う。大きい罪人です。あの人は地獄に行くべきだと。私たちはそれぐらい簡単に話します。しかし決してそうではありません。いくら大きい罪を犯したとしても決して地獄に落ちてはいけません。それほど凄惨なところです。そのために主が十字架につけられました。今まで私が何をしてきたか。私はどんな人なのか。私はどれほど義人なのか。私はずっと絶えずそれを探そうとしています。私は頭脳は足りないけど、美貌はあるから、愛されて当然ではないか。いいえ。決してそうではありません。私たちは何か小さなことを一つ見つけて、それで褒めてもらおうとします。それをもって高慢になります。 行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。 ダビデが出てきます。ここでどうしてダビデが出てきますか。ダビデはこの恵みが分かる人です。彼は王の身分でしたし、彼の罪を刺す預言者ナタンが来て、その罪を指摘したときに、その場で覆され、悔い改めました。彼は神様に何かを捧げたわけでもありません。詩篇51編に、全焼のいけにえを神様が願っておられたならば、私は全焼のいけにえを捧げたでしょう。しかし、神様は全焼のいけにえを喜ばない。神様は傷んだ心、砕かれた心、本当に泣きながら悔いる心。悔いる心、どうしてこんなにむごい状態になってしまったのか。どうして私がこんなにむごい罪を犯してしまったのか。どうして私の中に恵みがなく、こんな状態になったのか。いつも自分のことしか考えないこういう利己的な自分になってしまったのか。泣きながら悔い改めました。ダビデはそこで赦されるようになりました。もう一度神様に対する賛美が、彼が罪を隠しているときには、どうすればこれを隠せるだろうか、誰も知らないだろう。どれほどむごい罪を犯してしまったでしょうか。 私たちも同じでしょう。自分の罪を隠そうとしたり、素敵に見せかけようとしたり、 7,「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。 8,幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」 皆さん、二つの生き方しかありません。一つは私が何かをすることです。それを自慢する人です。もう一つは神様が私のために行ってくださったことを信じる人、それを自分のものとして受け入れる人。二つの生き方しかありません。一つは律法です。もう一つは信仰の生き方です。自分がした行い。自分は美貌はあるから、愛されるような存在だから。これはおぞましいことです。私がそのような存在だということを、ひどい状況だということを見るべきです。そして泣きながら十字架の前に来る者は幸いです。 不法を赦された。私は裁判の場に立っている罪人です。何か社会にすごいことをして褒めてもらうような存在ではありません。裁判の席に立たされ、尋問され、あの人のせいで本当に私の人生がどうなったか分かりますか?と、数多くの人が皆さんを罪に定めることができるのです。なぜなら、全て暴かれるからです。サタンも全部知っているから。神様も全部知っています。私が心に抱いた憎しみのゆえに、あの人がどんな人生を送ることになったか、どれほど恐ろしいでしょうか。全部を知られている。言い分がありません。何と言い訳できるでしょうか。その日が来る前に皆さん、十字架を掴んでください。それしかありません。私を救えるものは、罪人を救えるものは十字架しかありません。神の御子が死なれた。罪のある方が死んだのではなく、罪のない方が死なれました。罪とは完璧に無縁の方が殺された。一度も憎んだことがありません。一体どうしたらこんなことがあり得るのか。どうしてイスカリオテのユダを愛することができるのか。どうして、ペテロに対してよみがえった後に、どうしてそうされたのか。どうして一度も口を開かれないのか。このような方がおられるのか。その方に期待するべきです。その方だけが皆さんを救うことができます。自分の中にある深刻な罪を見るべきです。そして嘆くべきです。おお、どうしよう。この死の体から、使徒パウロがそのように告白しました。私たちは当然そのように告白するべきです。あれほど義人だった人もあのように告白するのに、私たちはなおさらではありませんか?使徒パウロはあのように告白したから、毎日死んだから、毎日自分は十字架で死んで毎日十字架でよみがえったから、本当にイエス様を一番見習った人生になれたのです。皆さん、自身を義人だと思わないでください。 罪人の中の罪人と思ってください。そうするときに毎日感謝が溢れます。毎日喜びが溢れます。どうしていつも喜びますか?絶えず祈りますか?いつも感謝しますか?まさにこれです。すべてが恵みになります。この生き方は、すべてが感謝になります。すべてが感謝です。死ぬはずの病気だったのに、そこから誰かのおかげで治ったと考えてみてください。死ぬべきだったのに、生きた。死んでよみがえる、それしか道がありません。恵みなのか。当然受けるべきものなのか。感謝があるか?そうでなければ、私が働いたことの報酬なのか。 皆さん、本当に毎日感謝の溢れる人生を一度も経験したことがないというのならば、すみませんが、皆さんは救われているのではありません。本当にすみませんが、それは救われているのではありません。狭い門に入りなさいとまで仰いました。救いは難しいです。まず、探す人が少ないです。ほとんどがそのように生きていません。イエス様の十字架の前に歩む人はごく稀です。教会の中だからといって、皆が救われると思いますか?そうではありません。もしそうだったなら、どれほど良いでしょうか。イエスを求めてください。どうしてここまでするべきだったのでしょうか。本当に私のためになさったことならば、神様、本当に私のためにここまでする必要がありますか?祈ってみてください。私は自分がそれほどまで大きな罪を犯した罪人だと考えていません。そのように祈ってみてください。そういうときに希望があります。ただあまりにも簡単に頭でだけ理解して終わろう、そのようにしないでください。 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人 私たちはアブラハムのようなことを何ひとつしたことがありませんが、神様は、私があなたをこのようにしてくださった、それを信じた。その信じたことをもってあなたは義人だと仰いました。同様に、律法がある前にも、アブラハムがそのように信じて義と認めてくださった。あなたのために、これほどまでに。これは裂かれる私の体です。このぶどう酒を飲みなさい。あなたがたのために流した私の血です。これは契約です。ContractではなくCovenantです。この契約は同等な関係で結ばれるものではなく、信じるときにその約束が私のものになるわけです。同等な立場での契約ではありません。これを飲めば、これを食べれば、あなた方が新しい人生を受けるようになる。新しい血があなたがたの中で作られる。新しい人生。死んでよみがえるようになる。私たちがそのような人生、救いの感激、救いの喜びがあふれるそのような教会になることを願います。 祈ります。 ハレルヤ。主よ。感謝します。律法的に私たちが神様に背き、神様と等しくなろうとし、私が自分の行いを誇り、褒めてもらおうとし、比べ、上に立とうとするその醜い罪を、おぉ、主よ、私たちを憐れんでください。主を知ることのできる恵みを注いでください。父よ。私たちを赦してください。父よ。彼らを赦してください。彼らは自分のしていることが分かりません。あなたのその義を、その愛を黙想しながら、私たちがどれほど大きな罪人なのか、神様の愛を疑い、自分だけを満たそうとしました。他の人に傷を与えました。おぉ、主よ。助けてください。罪を告白して主の御前に歩み出る私たち一人ひとりにしてください。恵みが必要です。主の赦しが必要です。わたしがしたことに対して代価をもらおうとするのではなく、そのように考えないようにしてください。おぉ、主よ。感謝します。いつも十字架を考えて、感謝をもって涙で感激する私たちとなりますようにしてください。イエス・キリストの聖名によって感謝して祈ります。アーメン。

Get Involved

教会案内

主任牧師挨拶 大阪エペソキリスト教会にご訪問くださった皆様方を歓迎致します。 いつも私たちと共におられ、導いてくださる神に栄光と賛美をささげます。 ま…

Featured News

主が受け入れるいけにえ

主が受け入れるいけにえ マルコ12:41-44、サムエルⅠ16:7 マルコ12:41-44 41,それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れ…

幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人

タイトル:幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人 本文:ローマ人への手紙 4章1節‐8節 1,それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。 2,もしアブラハムが行いによって義と認められ…